連載「あかるいところ」
桜の話
SIGUNATURE 2004/4 No.470
春といえば桜である。特に私たち日本人は、国花ということも手伝ってか、この花に一喜一憂する。しかしひとたび被写体となると、これがなかなか一筋縄ではいかない。仕事でも十年近く桜の花を撮影してきたし、当然のことながら、毎年美しい桜の光景に出会ってもいる。しかしその美しさがうまく写らない。自身の腕もさることながら、その要因は別のところにもありそうな気がしてならない。
桜の二面性とでもいえばいいのであろうか。この花は、引きで見るとぼんやりとしていて捉えどころがなく、では寄りで見ようとすると、思いの外不細工だったりするから面白い。昨今もっともポピュラーな染井吉野に至ってはなおさらである。
この花の持つ印象も複雑だ。一見すると、薄ピンク色の春の花という派手やかな印象を受けるが、同時に幽玄の世界にも通じる儚さと妖しさを持ち合わせている。それらを同時に一枚の写真におさめようとしても所詮無理というものらしく、私はいまだかつてそんな写真を目にしたことがない。ところが音楽の世界に目を向けると、この二律背反する世界が存在しているのである。
私はかねてより、桜の花のイメージはモーツァルトの音楽感にとても似ていると感じていた。モーツァルトの楽曲の多くは、同じロマン派のベートーヴェンのそれに比べても、旋律は極めて穏やかで、しかもフレーズそのものも短い。小さな美しい旋律が様々に重なり合った結果生まれる独特の世界観は、キラキラとした春の光そのもののように感じられる。だからといってただ明るいだけではなく、そこには他の何物にも替え難い孤独感も漂っているようにも思える。
そこでまずは、この桜のキラキラ感を具体的に検証してみることにした。引きで見ると桜はぼんやりしていると先述したが、これはどうやら紫外線による乱反射が原因と考えられる。開花時期の短い桜は、花びらをキラキラと乱反射させることによって、昆虫を呼び寄せているというのが多くの植物学者の見解である。
この紫外線光域は基本的に人類にとって不可視光域なので、視覚的に認識することは不可能である。けれども私たちは、幸いにもこの現象を何となく眩しいものとして感じ取っているのである。
この現象に代表されるように、桜の花というものは光によって見え方が大きく異なってくる。つまり、それを観る時間帯によっても、印象はもちろんのこと、その有様も大きく変化するのである。
京都には、第十六代佐野藤右衛門さんという桜守がいて、各地の桜木の世話をしていることで知られている。ある時ふと、彼の著書のなかで「桜は、朝しかもの言わへんのや」と記していたのを思い出した。
確かに早朝の桜は格別に美しい。
そして私が桜にカメラを向けていたのは、考えてみればいつも早朝だった。なぜか朝には、この世の中のすべてがまるで桜のために存在しているかのように思える瞬間がたびたびある。それがひとたび陽が昇ると、今度は桜が、我々が暮らすこの世のために艶やかに振る舞っているかのように見えるから不思議である。
そんなところも、桜とモーツァルトはとても似ている。
All Copyright by 1997-2004 Ichigo Sugawara