連載「あかるいところ」
     
 
カタロニアの話
SIGUNATURE 2004/7 No.473
 
     
     
   突然哲学的な話をするつもりはないが、職業柄 "見えること" と "見えないこと" についてはずっと気になっている。だからどうしたというわけではないが、私たちはその歴史の中で、数々の"見えないこと" を "見えること" に変えてきた。とにかくそうやってどんどん世界を見えるものにしてきた。しかし実際この世界は見えないことのほうがまだまだ多いのではないだろうか。
  これは以前にスペインを訪れた時のことである。私はバルセロナからマドリッドに向けて車を走らせていた。目の前には広い空とゴツゴツした岩で埋め尽くされた大地が拡がっていた。その様子は、実際に見たこともないのに月面そのもののように感じていた。だがそんな一介の人間の妄想を鮮やかに裏切るがごとく、ひとつの大きな丘を越えて目の前に現れたのは、見渡す限りの向日葵畑だった。面白いものでそうなると、その瞬間に世界が一変したかのような錯覚を覚える。気温さえも上がったように思えたものである。
  このように、どうやら "見えないこと" が "見えること" に変わる時に、何か新しいものが生まれてくるようなのである。
  カタロニアはスペインの東北部に位置するバルセロナを中心とした地方。スペイン語ではカタルーニャと発音する。近代文化の側面においてはスペインを代表する地方でもある。ガウディ、カザルス、ピカソなど、すべてあげたら切りがないほどこの地は多くの芸術家を生み出している。世界には、時折そういった独特の何かが起こる場所が存在するものだ。


  この奇跡にはきっと何らかの理由があるはずだ。その時はそれが何なのかすぐに解るわけもなく(今でも解っているわけではないが)、私はただぼんやりと長い時間その向日葵畑の前で車を止めていた。
  その後車を走らせること数十分。またしても突然、今度は大きな岩壁が私の視界を覆った。またひとつ、私に "見えること" を知らしめる出来事が増えたわけだが、とにかくその光景は圧倒的であった。
  その地はモンセラートという。バルセロナの郊外数十キロのところに位置し、先述のように異様な景観の岩山の上に、聖地として千年以上の歴史を紡ぎ続ける修道院が立っている。かのカザルスが、フランス亡命時代に平和を願って曲を捧げたことでも知られるモンセラート少年聖歌隊は、現在でも健在である。
  この修道院はフランコ独裁時代、カタロニアの言語、文化すべてが禁止された時代にあっても、カタロニア語でミサを続け、カタロニア人の心の支えであり続けたと聞いている。
  その異様なまでの存在感は、ゴシック以前のちょっとドロドロした中世キリスト教世界が作り出したロマネスク様式に根ざしたもので、ガウディをはじめとするカタロニア人たちの原点であることは容易に想像できるが、同時にそれがすべてではないことも理解できる。
  それを論証することに大きな意味を感じているわけではないが、ずっと気になっているのも確かである。言葉で言い表すことはとても難しいが、音楽にしても美術にしても、カタロニアの印象はとても温かい。むしろ目を閉じなければ見えない世界があるとするならば、そのような独特の世界観をそれらは持ち合わせている。
  恐らく彼らは長い歴史の中で、多くの悲しみを経験し、時には目を覆いたくなるような "見えること" を目の当たりにしてきた。そしてそれらを、この地に存在する強い光とともに、新しく温かい "見えること" へと変換し続けてきたのではないだろうか。そして私は今、何が解ったわけではないが、少しだけその "ぬくもり" を以前にも増して、確かに感じている。
 
 
 
 
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