連載「あかるいところ」
ハワースの話
SIGNATURE2004/12 NO.477
ハワースはイギリス北部の小さな村。かのブロンテ姉妹がその人生の大半を過ごし、世界中の人々に読まれ、幾度となく映画化が繰り返される小説「嵐が丘」の舞台となった場所でもある。
もしこの小説がこの地で生まれていなかったならば、遠方より訪れる人などいなかったかもしれない。しかし今では、このハワースという村はちょっとした観光地と化している。やはり私がこの寒村を訪れたのも、その小さな場所で繰り広げられた愛憎劇を象徴する丘を見てみたいと思ったからに他ならなかった。
物語の舞台になった廃虚は「トップ・ウィズンズ」と呼ばれ、ムーアという起伏の激しい荒野の中に、今でも当時の面影を残しながら、その家だけがポツンと立っている。
絵はがきを見ると、夏はヒースの花が咲き乱れ、辺り一面紫一色の世界になるようだ。しかし一度冬が来ると、そこに存在するのはただひたすらに冷たい風と大地だけ。しかもこのあたりは雨も多く、極めて天候は不順で晴れたり曇ったり、雨が降ったりを繰り返す。
実際私が訪れた時も、ハワースの村の上は青い空だったにも拘わらず、トップ・ウィズンズに向かうおよそ六キロほどの道のりの間に雲が空を覆い始めた。やがてシトシトと雨。しばらくすると今度は一転して青空といった具合に、天気は一日の天気とは思えないほど、次から次へと変わっていった。
私がトップ・ウィズンズに着いた頃には雨はやんでいたが、風は思いの外冷たかった。服が雨に濡れたこともあって、すぐに引き返そうかとも考えたが、思いとどまって丘の上に立つ廃虚の横で暫し休息することにした。
冷たい風の中に身を置いていると、ブロンテ姉妹がこの荒野の中を楽しげに駆け抜ける姿など思い描けるわけもなく、唯々「嵐が丘」という言葉だけが頭の中を駆け巡っていた。
目の前には荒涼とした大地が拡がり、確かに一見すると、とても寂しげな風景ではある。この場所で、なぜ姉妹たちはあのような物語を生み出すことができたのか不思議でならなかった。
そんな考えを巡らせている間に、天気は回復するどころか、次第に空も暗くなってきた。それこそ嵐にでもなったらたまったものではないと、丘を下りることにした。
ぬかるんだ道を歩きながら時折出合うのは、薄汚れた羊だけで、ほかには何もない。手は悴み、そのうえ足下が悪いことも手伝って、周りの景色などろくに目もくれず、ただひたすらに歩いていた。身体は芯まで冷えて、それこそ此の上なく心細い道のりだった。
そうこうしながら何キロほど歩いたのであろうか。ふと目に留まったのは、道端にひっそりと咲いていた小さな花。普段であれば、恐らく見過ごしてしまうであろう無名の小さな花である。しかしその時は、この小さな花が世の中で一番美しいものなのではないかと思えるほど綺麗に思えた。
どうやら、この地であの物語が生まれた所以は、こんなところにあるのかもしれない。作者のエミリー・ブロンテは、あの何もないひたすらに冷たい風が吹く中にいたからこそ、複雑な人間模様を思い描くことができたのではないか。
普段私たちは、多くのものと多くの人々に囲まれて暮らしている。そしてそこには、確かに様々なものが存在している。しかしその一つひとつの有り様に眼差しを向けた時、果たしてどれだけの真実を見つけ出せているのだろうか。
今思うと、ハワースのトップ・ウィズンズは、私にそんな当たり前のことを思い出させてくれた場所のひとつであった。
季節は冬。日本の風景は色彩を失い、北国では真っ白な雪で覆われるところもある。そんな時だからこそ、見えるもの、感じることができることがあるような気がする。
そして不思議なことに、あの時もそうだったように、何かを発見する瞬間というのはいつも、とても気分はあかるくて、ちょっとだけ温かい。
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