久高島は、沖縄本島南部、東の沖合約五キロ先に浮かぶ、全長およそ四キロメートル弱の細長い小さな島である。古くより「神の島」と呼ばれ、かの「ニライカナイ伝説」では、「アマミキヨ」と呼ばれる海の女神が最初に降り立った島とされている。確かにここはただの島ではない。「クボーウタキ」をはじめ、沖縄の人々にとって重要な場所が多くあり、島中が神がかり的な独特の気配で包まれている。
当然のことながら、私は島の住民ではないので、この島に大きく惹かれる部分がありながらも、どこかで自分自身がそこにいることにどこか違和感も感じていた。そんな自分にとって最も魅力的に映るのは、島の中に続く何本かの真っすぐな道だった。道は珊瑚の砂でできているので、昼間は晴れているといつも白く輝いている。それにしてもこの島の日差しはひたすらに強い。四方を海に囲まれ、光を遮るものがほとんどないので、その様はまるで海の上にいるかのように独特のものである。
昨年初めて久高島に泊まった。いつもだったら、帰りの船の時間を気にしながら歩いているので、それを気にとめることがないだけでも気分が違う。
その日は風も穏やかで、空には雲ひとつない青空が拡がっていた。私は何となくその白い道を歩き、浜に出ては海を眺め、また歩いては浜に出て海を眺め、を繰り返していた。
時間の感覚も方向の感覚も徐々に失われていった。ゆったりとした時間のなかで、ただぼんやりと美しい夕焼けを眺めていると、あっという間に夜がおとずれ、いきなり闇がすべてを支配した。突然訪れたその感じは、ひとり夜の海の中にいる怖さにも似ていて、一瞬、何も見えなくなってしまうような感じだった。このコントラストこそ、「ニライカナイ伝説」そのものなのかもしれない。
古くから周囲を海で囲まれた沖縄という土地は、海から様々な恩恵を授かってきた。浜には数々の美しい貝や魚たち、時には木の実、異国の生活道具なども打ち寄せられる。人々は、それら海からの授かりものは異郷からくる「寄りもの」と考え、この海の彼方に神々の住む島があると考えた。そしてその楽園を「ニライカナイ」と呼んだ。しかしニライカナイからは穀物を襲う虫など疫虫もやってくることから、必ずしも楽園ではないと伝説は語る。どうやら私は偶然にも一瞬にして、光と影の相反する両面のなかに身を置くこととなったのである。
やがてその闇のにも目も慣れてきた。その日の月は三日月だったので、月明かりといっても満月に比べれば当然明るくはない。それでも先ほどまで闇と感じていた世界は、確実に明るくなっている。そしてものが見えてくると同時に恐怖も薄らいできた。
よせばいいのに、私は歩いてきた道を恐る恐る引き返して、もう一度海に出た。すると暗いはずのその浜辺の光景が、今度はとても明るく感じる。
私は次の日の朝も、また同じ道を歩いていた。その日も前日同様に快晴だった。相変わらず道は白く輝いている。その道すがら、私は昨夜の体験を思い出していた。不思議なことに、その記憶のなかの光景は決して暗くない。昨夜の闇の体験のせいか、目の前に続く道は今まで以上に何処までも続いているように思える。
今まで何となく近寄りがたい存在だった久高島が、少しだけ身近な場所に変わっていったように思えた。そして「アマミキヨ」という女神は、この光そのものなのではないかとも。
私は今、もう一度ここから歩いてみることにしようと、何となく思っている。 |