2000/08/13 「吉増剛造」そして「伊波普猷」



伊豆諸島には台風が訪れ、三宅島が噴火をする中、僕は沖縄に向かっていた。
久しぶりの沖縄である。今回は詩人「吉増剛造」氏と宮古島の詩人「与那覇幹夫」氏の対談を写像工房の小倉一夫氏と共に撮影に来た。仕事というより、僕は小倉さんと一緒に「沖縄」を旅して、「吉増剛造」に会いたいという想いが強かった。僕と「吉増剛造の詩」との出会いは高校生の頃に遡る。当時、氏の「黄金詩篇」という詩集は、表面的には非常に男性的で力強い言葉が存在している。しかしその裏側に、非常に「透明なもの」を感じて何度となく繰り返し読んだ記憶がある。僕は、その詩集の中の「行け!」「行け!」と繰り返すその言葉に、少しばかり前に動かされた記憶がある。そして大学生の頃、吉増さんが撮られたいくつかの写真とエッセイと詩、といった構成の詩集「静かな場所」という本を愛読していた。その中に「オルガン」という詩があって、直接的にはあまり関係ないが、勝手に少しだけ意識して、路上に捨てられた「電気ピアノ」の写真を撮った。僕は今でもこの1枚に写真が、僕に写真家への道を切り開いたと思っている。
そのようなわけで、かねてより非常に憧憬の深い詩人ではあった。
以前、このページでも書いたと思うが「モンスーン」という王子製紙のPR誌で、僕が「亜細亜建築進化論」というタイトルで「伊東忠太」建築の「築地本願寺」の撮影をしたのだが、今回は「南島幻想詩」というタイトルで、吉増さんの写真と与那覇さんとの対談、といった構成になっている。その対談に同席させてもらったわけである。


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とにかく、すごくいい対談であった。僕はこんなにも映像が浮かぶ「美しい対談」を他に知らない。吉増さんは、身振り手振りと共に「映像」を思い浮かべるようにゆっくりと丁寧に話す。与那覇さんは、それに答えるように「地元」としての見解を、これもまた丁寧に受け答える。そして、いつしか話は大きく「大神島(おおみわじま)」「宮古島」の話から、「日本」という国そのものに及ぶ。(詳しくはまた改めて紹介したいと思っている)僕にも、吉増さんが昨今「折口信夫」氏の足跡を辿り「南島巡り」をされている理由が少しだけ解ってきた。氏は昨年「生涯は夢の中径(なかみち)-折口信夫と歩行-」(思潮社刊)という本を出版されている。
その1時間ほどの和やかな対談は、沖縄の強い日差しの下にある、古くて小さいホテルの一室の軟らかい光の中で 静かに幕を閉じた。そこにいたすべての人が、この場にいることに喜びを覚えながら。
とにかく、魅力的な人たちである。

 
「那覇第一ホテル」の一室で対談する「吉増剛造」氏と「与那覇幹夫」氏

その後、我が儘言って(吉増さん、与那覇さんも乗り気で?)そのホテルの中庭で撮影をし、そして、4人で琉球料理を楽しんだ。本当に意味のある、楽しい時間を共有できた。僕が吉増さんに観てもらいたくて持って来た僕の写真集「青い魚」「赤い花」を、2人はいたく誉めて下さったのが、また嬉しかった。この2冊の写真集の舞台でもある「那覇」で、この出会いは僕にとっては何にも代え難いものがある。与那覇さんもすごく喜んでくれて、氏の故郷でもある「宮古島」を近々、訪ねる約束をした。今から氏のデビュー作「赤い土の島?」を読むのが楽しみである。

その翌日、吉増さんは船に乗って「与論島」に行くと言う。その前に那覇の街中で撮影をしようということになった。(今、僕と小倉さんは、吉増さんの写真集を計画している。)
当日、吉増さんと合流し、吉増さんお気に入りの場所に向かったのだが、本当にそこでまた驚いた。その撮影地は、僕も映画「青い魚」で舞台の中心とした場所と完全に合致していた。「平和通り」という商店街から小さな路地に入ると、そこはもう別世界なのである。人々がひっそりと暮らすその路地裏には、強い日差しが差し込み、その視界の上には、入り組んだ電線と共に「大きな空」が見える。そして、その路地を抜けると、大きなガジュマロの木が立ちこめる「公園」がある。僕もその公園でカメラを廻した。吉増さんはそこを「那覇のへそ」と言っていた。
確かに「へそ」なのかも知れない。何故ならそこから、本当にいろんなものが生まれているように思うから。
その時、いつものように猫が通りすぎた。その姿と吉増さんが重なってしまったのは、言うまでもない。
短い時間ではあったが、濃密且つ過去と未来が交錯する、時間という概念を越えた「時間」であったように思う。
我々は「与論島」に向かう吉増さんを那覇新港まで見送り、再会を固く約束し、再び「那覇」の街の中に紛れ込んだ。


僕の宿泊先「沖縄グランドキャッスル」より望む「那覇」の街の夕暮れ

今、「那覇」の1日が終わろうとしている。時間は午後7時頃。光はまたしても、間違いなく4500K。もうカラーメーターなんていらない。僕の網膜にはこの色温度が、しっかりと刻み込まれているのを再確認した。この4500Kの光はすべてのものを暖かく包み込み、そのものの、街さえも「命の温度」を表出する。
僕がこんなにも「沖縄」を愛してやまないのは、間違いなくこの「空」と「光」のせいである。
僕がもともと意識して「沖縄」に出会ったのは、他でもない映画「青い魚」である。僕はこの街に、直感として「雅」とは異なる「本当の日本」みたいなものを感じたわけである。何回かのロケハンを繰り返し、結局この地で「日常」をテーマにした映画の撮影を行った。そしてその後も、数々の沖縄行を繰り返す中で、僕はどんどん「ハマッていった」のである。
そして今回、その直感が単なる思いつきでないことを知った。小倉さんと那覇の古本屋に行ったとき、小倉さんが手にしていた本で「伊波普猷(いはふゆう)」という人を知った。「沖縄学の父」といわれる氏は、「日琉同祖論」を論じ、「柳田国男」「折口信夫」といった人々とも交流があり、なかでも折口氏は、彼を訪ねて沖縄を訪問した際、「ここには、日本の原点がある!」といって氏には珍しく狂喜乱舞したと聞く。そして、彼らの交流は一生涯続くことになったわけである。そして今、その折口氏の足跡を辿って吉増氏が「南島」を歩いている。その吉増さんと僕は同じ場所を見ている。僕なりの所感は「明るい部屋」で改めてじっくり書くこととするが、そんなわけで、小倉さんのおかげで「伊波普猷」と出会った。そして、何より驚いたのは、先日撮影をした「築地本願寺」を造った「伊東忠太」氏と「伊波普猷」氏はかねてからの親友で、その縁あって、死後13回忌の命日まで遺骨は「築地本願寺」に納骨されていたそうである。そしてもうひとつ、僕と小倉さんの前には、すごいことが起きていた。というのも「沖縄県立博物館」で「伊波普猷」のことを訪ねた。そして、彼のお墓が浦添市にあることを知った。偶然とは怖いもので、当初「お墓参りにでも行こうか?」と話していたのだが、徐々に時間が無くなってきたので「またにしよう。」ということになった。しかし、古本屋探しをしているうちに、道に迷い、浦添市に迷い込んでしまったのである。小倉さんと「ここに伊波普猷のお墓があるんだね!今度はお墓参りに来なくては!」と話していたわけである。しかも僕たちが図らずも浦添市を訪れた8月13日は、何と!「伊波普猷」の命日であったのであった!
もう呼ばれたとしか思えないのである?しかも、そのことを知ったのは帰りの飛行機の機内であった。小倉さんが古本屋で手に入れた一冊の本がすべてのことをひもどいたわけである。とにかく今は、この人物のことを知りたくて仕方がない。とりあえず僕は、小倉さんと共に全11巻の「伊波普猷全集」の購入を決めた。

これだけではうまく伝えられないけど、確実に「新しい旅」の始まりを告げる出来事のような気がしている。
「直感」から始まった「関わり」が実を結ぶ日が来るまで、追いかけてみたいと思っている。

とにかく、いろいろありそうである!?
「宮古島」いつ行こうか?(小倉さん宛)


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